大田区からハマの星に祈りをこめて

ベイスターズの試合について熱く書いていきます。1試合に1選手。最も心揺さぶられた事に、全力投球! そしてフルスイングで!

TAKE PRIDE IN YOUR WORK. #19

2021年5月29日(土)
楽天生命パーク宮城
ベイスターズ 1-1 ゴールデンイーグルス


同点の9回裏。
ノーアウト満塁のチャンスを活かせなかった直後の嫌な流れ。


その厳しいマウンドに背番号19が向かった。
ランナーを一人出すも、無失点で切り抜ける。


「負けなかったのは選手たちがよく守って、緊急登板でも最少失点で投げてくれたから。勝てなかったのは監督の責任です」


指揮官は、選手を会見では責めなかった。
そして、その責任を背負い込んだ。


痺れる投手戦をドローに持ち込んだ「小さな大魔神」は、チームメイトと笑顔でハイタッチを交わした。


1992年10月2日生まれ。
東京都荒川区出身の28歳。
人情味溢れる庶民の町で彼は育った。


小学校3年生時に両親が離婚。
姉と共に母と暮らす事を選んだ。


だが週末になれば、少年野球のコーチだった父に会えた。
大好きな父とともに野球に没頭した少年時代だった。


「子供の頃、母と一緒にゆっくりご飯を食べた記憶はないですね」


朝から夜中まで不眠不休で働き、2人の子供を育てる母の背中に、少年は誓う。


「プロ野球選手になって、お母さんに恩返しする」


甲子園の常連、名門・帝京高校に進学。
2年生の時、強豪校の厳しい練習に、日々の学業との両立の壁にぶつかった彼は、母に告げる。


「お母さん、僕、野球辞める」
「何を言っているの! 自分で蒔いた種でしょ。自分で拾いなさい!」


どんなに辛くても涙一つ見せたことなどなかった母が、はじめて彼の前で泣いた。
タクシーに乗せこまれ高校へ。


校門には、監督とチームメイトが待ってくれていた。


「僕には、家族と野球しかない」
彼の腹が決まった。


甲子園に2度出場するも、ドラフト指名はならなかった。


「4年後に必ずドラフト1位でプロに行く」


更に強い決意で亜細亜大学に進学。
大学日本代表にも選ばれる活躍が評価され、2014年ドラフト1位でベイスターズに入団する。


開幕直前のファンミーティング。
「康晃、ストッパーやるか?!」
「はい、やります!」


中畑清監督の思いつきの大博打に見えた決断にも、裏付けがあった。
チームは彼を、大学時代から「ストッパー候補」としてマークしていたのだ。


「小さな大魔神になります!」


デビュー戦のヒーローインタビューで彼は満面の笑みで叫ぶ。


58試合。
防御率1.92。
2勝4敗37セーブ。


2000年の金城龍彦以来、チームとして15年振りの新人王に輝く。


「その人の思い出に残るように5秒間念じてサインをしています」
コロナ前には、スタッフに止められるまで彼の試合前のファンサービスは続けらていた。


セーブ王のタイトルも取った。


「大事な試合をいくつか落としてしまった。タイトルをとっても優勝しなければ意味がない」


回跨ぎが苦手。
同点では力を発揮できない。
夏場のスタミナ切れ。


多くの課題を抱えながらも、デビューした年から5年連続でストッパーを務めた。
プロ野球史上、こんな選手はかつて存在しなかった。


それが2020年に途絶えた。


デビュー以来初の本格的な挫折。
本来の投球ができず、ストッパー降格。
シーズン終盤には、デビュー以来初のファーム落ちも経験する。


2021年キャンプもファームスタート。


「良いボールは投げている。でも彼は山﨑康晃なんだ。山﨑康晃のボールが投げられるまで、一軍には推薦しない」


仁志敏久二軍監督は、厳しくも温かく彼を見守ってきた。
そして、シーズン開幕直前に一軍昇格を勝ち取る。


だがストッパーの座には、三嶋一輝がいた。


7回、8回を中心にセットアッパーとして活躍。
チームが勢いに乗れない中、安定した投球を重ねてきた。


横浜が、このまま終わる訳がない。
ベイスターズには、小さな大魔神がいる。


まだ本来の職場復帰ではない。


だが、どん底から帰ってきた不死鳥がチームを必ず上昇させる。


闘いは続いていく。


たたかうぞ
闘志みなぎらせて
勝利の海
行くぞベイスターズ


横浜DeNAベイスターズ。
背番号19。
山﨑康晃。


TAKE PRIDE IN YOUR WORK.
自分の仕事に誇りを持つ。


今こそ、横浜一心。
I☆YOKOHAMA